東京では大正から昭和初期に都市化が急速に進められ、上水道関連も整備されました。
写真はその当時の事業の一環で作られた給水塔(配水塔)です。左は世田谷区の駒沢給水塔。右は中野区の野方配水塔。昔の建造物はモダンですね。
駒沢給水塔 | 野方配水塔 | |
建設 時期 |
1921年(大正10年)5月に着工。1923年(大正12年)3月に2号塔、11月に1号塔を竣工。1999年には全ての給水機能を停止。 | 1926年(昭和2年)着工。1929年(昭和5年)3月末に竣工し、配水塔としては1966年に使用を停止した。 |
容量 | 高さ22.72m、内径13.937m。2基ある。 | 高さ33.6m、外径18m。 |
概要 | 多摩川河畔の取水所(砧下浄水所)から駒沢の給水所まで送水し、ポンプの力で給水塔に押し上げた後、重力で渋谷町へ送水する。 | 多摩川の水を砧浄水所から野方給水所(現中野区)と大谷口給水所(現板橋区)に送水するために荒玉水道が構築され、それぞれに配水塔が作られた。 |
その他 特徴 |
壁面装飾先端部のライトが点灯される。 | 空襲時の弾丸の痕跡が残っている。 |
建設時期をみると駒沢給水塔の方が少し早く作られたようです。貯水容量は野方配水塔の方が大きいが駒沢給水塔は二基作られています。
水源は双方とも多摩川ですが、駒沢給水塔に水を送っていたのは砧下浄水所。野方配水塔の水源である荒玉水道の起点は砧浄水所です。名前は似ていますが違う浄水所です。
給水塔、配水塔と命名が異なっていますが、双方とも重力によって上水を配給するためのものであり目的や機能的な差は無いようです。
桜新町駅から通りを東に進むと駒沢配水塔が見える道が分岐します。「水道みち」と名付けられたこの道を進むと案内板が所々にあり、駒沢配水塔がだんだん大きく見えてきます(写真左)。「水道みち」は砧下浄水所から駒沢給水塔への水路であった道です。
給水所の中には入れないので外側を回って東側に行くと柵から配水塔全体を覗くことができます(写真右)。最上部に電灯がつく装飾があって王冠の様で洒落たデザインです。塔の下の方には「滾々不盡」(コンコンフジン:尽きることなく湧く)と文字が刻まれているのが見えます。
哲学堂公園から哲学堂通りを北上すると左側に配水塔が見えてきます(写真左)。給水所は運用停止後に「みずのとう公園」として開放されているので、裏からは配水塔を間近に見ることができます。
昭和の初めに作られた配水塔には戦争の爪痕があります(写真右)。東大和市の旧日立航空機変電所ほど酷くは無いですが機銃掃射の痕跡があり、戦争の悲惨さと平和の尊さを感じることができます。
なお野方配水塔の兄弟分である板橋区の大谷口配水塔は、老朽化と給水所の再整備のため2005年に取り壊され、デザインを模した新しい塔が建っています。
荒玉水道は多摩川から都内を北上して板橋区まで引かれていますがもうすぐで荒川です。なぜ近くにある荒川でなく多摩川から取水するのでしょうか。
荒川は秋ヶ瀬橋までが汽水域といわれており笹目橋まで潮の満ち引きの影響があるそうです。片や多摩川は地理院地図を見る限り砧浄水所あたりの水面でも標高が10mあります。
「多摩川の方が荒川より水位が高い」というのが理由の一つではあるようです。